SSKA頸損 No.129より PDFファイル

福島県応援ツアーレポート

兵庫頸髄損傷者連絡会 宮野 秀樹

 本格的な暑さに突入しようとしていた7月下旬に「福島県応援ツアー」を行いました。その様子を報告しますので、最後までおつき合いください。

ツアーに至る経緯

 2011年3月11日14時46分、宮城県石巻市の牡鹿半島の三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が東北地方を襲いました。「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」(以下、東日本大震災)と命名されたその地震は、私の記憶にある津波による被害としては、北海道の奥尻島を襲った北海道南西沖地震の被害を大きく上回る被害と経済的損失を及ぼしたものでした。
 私は、兵庫県三田市にあるNPOで重度障害者の自立支援・権利擁護活動を行っていますが、NPOとしても東日本大震災の発生直後から、募金活動を中心に救援活動を行い、毎年、被災地の名産品などを取り寄せ、「食」を通しての応援も行うなど、微力ながら復興のお手伝いを行ってきました。
 私が特に応援しているのが福島県です。他県を応援しないということではなく、福島県は福島第一原子力発電所を有する県であり、他の被災した県に比べても、特異な被害を被った県であると考えているからです。2014年に南相馬市の仮設住宅に4都県合同交流会で訪れ、被災地を目にしてからは「もっと自分にできることはないだろうか?」とより強く考えるようになりました。
 そんな私に声をかけてくださったのが福島県伊達市在住の頸損者であり、「障がい者の旅行を考える会」代表の佐藤孝浩さん。「福島県はフルーツも有名なんですよ。宮野さんがさくらんぼや桃を食べに来てくれて宣伝してくれると、それだけで応援になるんだけどなぁ。」と言われたら行かないわけにはいきません。昨年NPOから電動車椅子ユーザー4名、スタッフ8名の総勢12名で福島市を訪れ、ふくしまバリアフリーツアーセンターと佐藤さんご協力の下、震災を経験された障害者団体を訪ねて被災時の話を聞き、風評被害を乗り越えた観光地や果樹園を訪れ、「福島県応援ツアー」(当初は福島県復興支援ツアーとして計画していたが、復興という重苦しい局面は脱してきたので、さらに元気になっていく応援をしよう!という理由で応援ツアーに名称を変更しました。)を実施し、情報収集・情報発信を行いました。
 「さくらんぼ狩りが良かったです。」ツアーの最終日に感想を述べたところ、「福島は桃も美味いんですよ。でも桃の季節は7月後半になるので頸損には暑過ぎます。絶対来ようなんて思わないでくださいね。」と佐藤さん。全てを“フリ”だと捉える関西人には「来い!」としか聞こえなかったため、今年の初めに「桃食べに行きます!」と伝えて企画されたのがこの「福島県応援ツアー」であり、今回は第2弾となるわけです。

ツアーまでの準備

 「被災地を視察したい。できれば原発の近くまで行くことはできないか?」率直な思いを佐藤さんにぶつけました。最近では、メディアではほとんど福島県の様子が伝えられなくなりましたが(関西ではそれを強く感じる)、原発事故が及ぼした影響が収束したとはとても思えません。現に収束していません。阪神淡路大震災を経験した県民として、まだ元の生活に戻れない人たちがいるにもかかわらず、人の記憶から震災が風化していくことに懸念を抱いています。痛手は引きずらなくてもいいが、決して忘れてはならない。現状を知ってもらい、多くの方に自分にできる範囲で福島県を応援してもらいたいと考えていました。実際に現地に赴くことが困難なことはわかっていましたが、無理を承知で要望しました。
 いつもなら「任せてください」と即答してくださる顔も心もデカい佐藤さんが「ちょっと時間をください。いろいろ当たってみます。」と即答を避けたことに、この要望の困難さが感じ取れました。実際に佐藤さんとは何度も電話で話し、打ち合わせを入念に行いました。最後まで難航したのが、被災地で震災時のことを話してくださる方の調整でした。私としては無理を言っている手前心苦しかったので「被災地を見るだけで構いませんよ。」と伝えたのですが、「宮野さんがせっかく来るのに、しっかり情報を伝えてくれる語り部さんを用意できなくてどーすんですか!宮野さんに会わせる顔がないですよ。(いや、どれだけ顔を隠してもそのデカい顔は見えてますよ)」と顔のデカさによらず細やかな気遣いをしてくださった佐藤さん。顔のデカさ同様、本当に心が広い人です。そんな佐藤さんのご尽力で以下の行程を組むことができました。

初日
・あづま果樹園での桃狩り
2日目
・いいたて村の道の駅までい館(休憩)
・昼食(語り部ガイドとの懇親会)
「まち・なみ・まるしぇ」を訪問
・東京電力廃炉資料館の見学
・かんぽの宿いわきで宿泊
3日目
・いわき・ら・ら・ミュウを視察

 今回の福島県応援ツアーは、被災地でも視察するのが難しい場所を訪れることもあり、私単独でのツアーとなったこともお伝えしておきます。

あづま果樹園

 福島市飯坂町にある「あづま果樹園」を訪れました。吾妻一夫・代表取締役のご厚意により、電動車椅子でも移動しやすい桃畑で桃狩りを楽しむことができました。風通しの良い畑であるのと桃の木と葉っぱがちょうど日を遮ってくれたおかげで、心配していた暑さもかなり軽減され、快適な環境の中で過ごすことができました(佐藤さんは顔がデカい分、熱を取り込んでいたようで少ししんどそうでした。)。私たちが訪れた時期は、「暁星(ぎょうせい)」という品種が出ており、介助者にもぎ取ってもらいながら食しました。やや小ぶりですが酸味が少なく甘みが強い桃でした。お昼ご飯は済ませていたのですが、食べだすと止まらず立て続けに5個も食べてしましました。介助者はもっと食べていたので、いかに美味しかったかが想像できると思います。大変堪能しました。聞いたところでは、暁星が出だすと本格的な桃のシーズンの到来らしく、暁星の後には福島の主力である「あかつき」が出てくるそうです。
 あづま果樹園では、福島民友新聞社が私たちの活動を取材してくださいました。風評被害を乗り越えて多くの人で賑わっている桃園で、車椅子ユーザーである私たちも一緒に桃狩りを楽しめることがなによりも嬉しいということを語りました。あづま果樹園は、障害者に障害のない人たちと同じように果物狩りが楽しめる環境を提供してくれています。みなさんも是非訪れてみてください。

あづま果樹園でのビッグフェイスブラザーズ

いいたて村の道の駅までい館

 2日目は、ホテルを出発して浪江町を目指しました。福島市から浪江町までは距離もあるので、途中の飯舘村で休憩することにしました。県道12号線沿いにある「いいたて村の道の駅までい館」に立ち寄りました。「までい」とは「手間暇を惜しまず」「心を込めて」「丁寧に」「慎ましく」といった意味の方言らしいです。佐藤さんを見ていると顔のデカさもそうですが、この「までい」という言葉がぴったりと当てはまります(急に褒めてみました)。この道の駅は復興のシンボルとして約2年前に開駅されたそうです。実は道の駅にたどり着くまでに要所要所で汚染土(除染処理してありますが、ここではあえて汚染土と書きます。)と線量計が目に留まりました。道の駅にもやはり線量計が設置されており、これが被災地の現実なのだと複雑な気持ちになりました。館内は天井から草花が吊り下げられたり、自然を感じさせる彩りが施され、線量計とは対照的に心穏やかに過ごせる空間となっていました。

一番目立つところにある線量計

浪江町まち・なみ・まるしぇ

 浪江といえば、安室奈美恵が真っ先に思い浮かんでしまいますが、福島の浪江町といえば「浪江焼きそば」が有名です。4都県合同交流会のときに浪江町から避難されてきた方のお話を聞いたので、一度は訪れたい被災地でした。今回ようやく実現しました。私たちがお話を伺うことを受け入れてくださったのが、浪江町仮設商業施設「まち・なみ・まるしぇ」の中で「キッチン・グランマ」を経営されている渡邊りえ子さんでした。「まち・なみ・まるしぇ」とは、一部で避難指示が解除されたけれど、帰宅しても周辺にはお店がないため、食事や買い物ができないという状況を改善すべく、浪江町役場の敷地内に開設された仮設商店街です。
 キッチン・グランマは、食堂の経験がなかった渡邊さんが町役場からの要請によって出店されました。当初はある程度の期間で辞めるつもりでしたが、訪れる人たちや年配の方々の要望により継続することにしたそうです。「家族に食べさせる家庭的な料理」をコンセプトにしているらしく、ボリュームがありそれでいて懐かしい味のお弁当をいただきました。
 「とにかくみんなの胃袋を満たして元気にしたいのよ!」と笑顔でおっしゃる渡邊さんが印象的でした。

震災時のお話を聞く宮野と佐藤さん(右)

 渡邊さんを含めた5名の浪江町の復興に尽力されている方たちと懇親会をしました。震災発生時は避難指示がなく、自主的に避難をしたがすぐに帰れると思っていた。一夜明けると急に国からの避難指示が出て、それ以降8年間町に戻ることができなくなった、という話には言葉を失いました。帰ることが当たり前で、そこに何の疑問も抱かない日常が突然奪われてしまう。想像することが難しいです。帰りたくても帰れない8年間はあまりにも惨く感じます。また、性被害の危険性が日常的にあるという話もショッキングでした。年配者であっても例外ではないとのこと。震災は何を壊し、どこまで壊していくのか?深く考えさせられました。避難指示が解除され自宅に戻ったけれど、先が見えない中で生活しなければならないという過度のストレスのせいで「何をやっても、何を見ても面白くない」と淡々と語る女性の表情にも心を締め付けられました。現在の浪江町の人口は約1000人。「まだ1000人ですか…」との私の不用意な発言にその場にいた人たちから「私たちからすると『まだ1000人か』ではなく、『1000人も』戻ってきてくれたんです。0人から再スタートしての1000人なんです。」との言葉をいただき、被災地とそうではない地域住む者の認識の違いに気づかされました。「この地はすでに前を向いているんだ。」今回の訪問で知ることができました。「また来ます。必ず来ます。」一度訪れたものとしてどのように進んでいくのかを見なければならない。そういう思いを強く持ちました。来年も、これからもお元気で!来年会いましょう。

まち・なみ・まるしぇ懇親会メンバー

帰宅困難区域視察

 浪江町を後にして富岡町にある東京電力廃炉資料館までにある国道6号線沿いの帰宅困難区域を車の中から視察した。「車の窓は絶対に開けないこと。」という条件付きでこのルートを通ってもらいました。私はハイエースの後部に乗っていたため、電動車椅子をほぼフラットな状態にリクライニングさせて、窓からなんとか外を見ながら走りました。浪江町から富岡町までの約30分、見づらいとは言えその重苦しい雰囲気を感じ取るには十分でした。いきなり人気ないところから人気が一切なくなる。家や建物はそのままに人だけがいなくなった世界。「ここに人が戻ってこられる日がやってくるのだろうか?」廃墟と言ってはいけない、ゴーストタウンとは言ってはいけないとわかっていても、そうイメージせずにはいられない景色が広がっていました。なぜこうなったのか?なぜこの地を追われなければならなかったのか?そう考えると怒りを禁じ得ません。
 東京電力廃炉資料館に着くまで相当長い時間がかかったように感じました。その後、資料館で震災当時の原発の状況、なぜ事故は起きたのか、廃炉にするまでの工程を見ましたが、実のところあまり覚えていません。それぐらい車から見た帰宅困難区域の様子が頭から離れませんでした。

国道6号線双葉町にて

最後に

 まだまだ書き足りないことがあります。くだらない話をたくさんしているので、それを抜くともう少し情報が盛り込めますが、全体を見てみても笑うことや考えさせられることがあってのツアーであったと思います。そしてこの行動こそが「忘れない・忘れさせない」ための活動につながります。
 東京電力廃炉資料館での東京電力の「反省しています」との言葉。どうこの失敗を次に活かしていくのか、この国に生まれたものとして一緒に考えなければなりません。見届けなければなりません。
 ただし人は必ず立ち上がります。「いわき・ら・ら・ミュウ」も津波の甚大な被害を受けましたが、元気で活気があふれる市場に戻っていました。私もこの応援ツアーは続けるつもりです。またどこかを訪れた際には笑いを交えながら得た情報をお伝えしたいと思います。

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